リゼでは、雨が降り続いていた。
乾く気配のない空気が街に滞り、車のボンネットを叩く雨音だけが、朝から晩まで同じリズムを刻んでいた。
最初の数日は、すぐに通り過ぎるつもりだった。
けれど気がつけば、同じパン屋の扉を何度も開けていた。
扉を押すたび、湿った空気に混ざって焼きたてのパンの匂いが流れ込んでくる。外の冷たさとは違う、やわらかい温度がそこにはあった。
店主は、いつも同じ場所に立っていた。
ほとんど言葉は交わさない。ただ、必要なやり取りだけを短く済ませ、また自分の仕事に戻っていく。
愛想のない人だ、最初はそう思った。
ある日、何も頼んでいないのに、小さなグラスが目の前に置かれた。
赤く透き通ったチャイだった。
礼を言うと、店主は一瞬だけこちらを見て、わずかに口元を緩めた気がした。
それだけのことだった。
けれど、その日から雨の時間の流れ方が少しだけ変わった。
観光をしようと外に出た矢先、雨に降られた日があった。
傘は持っていなかった。濡れながら宿まで戻るしかないと思い、足早に歩いていた途中で、その店の前で立ち止まった。
ガラス越しに並ぶパンや甘い菓子。けれど店内の席は空いていて、どこか時間が止まっているように見えた。
一度宿に戻ったら、もう外には出たくないと思った。
いくつかパンを選び、持ち帰りできるかと尋ねると、店主は短く頷き、静かに袋へ詰め始めた。
無駄な動きがひとつもない。
そのまま店を出て、雨の中を走って帰った。
翌朝も、雨はやんでいなかった。
まだ暗さの残る通りを歩いていると、一軒だけ明かりのついた場所があった。
あの店だった。
店主は前日と同じように、黙々とパンを並べている。
特別お腹が空いていたわけじゃない。ただ、あの空気の中にもう一度身を置きたいと思った。
扉を開けて席に座る。
「チャイをください」
それだけ伝える。
店内にはラジオの音が小さく流れていた。
しばらくして運ばれてきたチャイから、白い湯気が静かに立ち上る。
グラスに手を添え、その熱を確かめながら、外の雨を眺めていた。
何をするわけでもない時間だった。
ただ、そこにいるだけの時間だった。
それから毎朝、まだ日が昇る前にその店へ通った。
夕方にはパンを買って宿へ戻る。
それだけの繰り返しが、いつの間にか一日の輪郭になっていた。
二週間も経つ頃には、言葉を交わさなくても居心地の悪さはなかった。
ある朝、席に着くと、注文をする前にチャイが置かれた。
今日はどれにする、とパンを指差してくる。
選ぶと、食べやすい大きさに切り分けて皿に並べてくれた。
変わらず無口だったが、そういう小さな所作に、この人のやさしさが滲んでいた。
パンに手を伸ばしたとき、店主がチャイを持って同じテーブルに腰を下ろした。
「君はここに住んでいるのか」
「いや、観光で来ている」
「なぜそんなにトルコ語を話せるんだ」
ぽつりぽつりとした会話だった。
話すうちに、彼は少しだけ笑うようになった。
最初に感じた距離は、気づかないうちにほどけていた。
「こんな小さな町で、何をしているんだ」
そう聞かれたとき、答えに少し迷った。
特に理由はなかった。
来る前に予約していた宿の期間が残っていただけで、何かを見に来たわけでもなかった。
ただ、雨の中で時間を過ごしていただけだった。
「観光だよ」
結局、そう答えた。
それからは、顔を合わせるたびに短い会話を交わすようになった。
どこへ行ったのか、明日はどこへ行くのか。
そのたびに彼は、チャイを飲んでいけと席に座らせた。
会計をするときには、いつもチャイの分だけが抜かれていた。
何も言わずに。
リゼを発つ日も、雨は降っていた。
いつものように店へ行くと、彼は次にどこへ行くのか、どうやって行くのかを何度も確かめてきた。
「大丈夫、ちゃんと行けるから」
そう言うと、彼は少しだけ笑って、チャイのおかわりを勧めてきた。
外は相変わらず冷たい雨だった。
けれど、その日最後に飲んだチャイは、不思議なくらいあたたかかった。
またここに来る理由が、ひとつできた気がした。