旅はまだ終わらない

雨とチャイ

2026.03.19 Kinono24

リゼでは、雨が降り続いていた。

乾く気配のない空気が街に滞り、車のボンネットを叩く雨音だけが、朝から晩まで同じリズムを刻んでいた。

最初の数日は、すぐに通り過ぎるつもりだった。

けれど気がつけば、同じパン屋の扉を何度も開けていた。

扉を押すたび、湿った空気に混ざって焼きたてのパンの匂いが流れ込んでくる。外の冷たさとは違う、やわらかい温度がそこにはあった。

店主は、いつも同じ場所に立っていた。

ほとんど言葉は交わさない。ただ、必要なやり取りだけを短く済ませ、また自分の仕事に戻っていく。

愛想のない人だ、最初はそう思った。

ある日、何も頼んでいないのに、小さなグラスが目の前に置かれた。

赤く透き通ったチャイだった。

礼を言うと、店主は一瞬だけこちらを見て、わずかに口元を緩めた気がした。

それだけのことだった。

けれど、その日から雨の時間の流れ方が少しだけ変わった。

 

観光をしようと外に出た矢先、雨に降られた日があった。

傘は持っていなかった。濡れながら宿まで戻るしかないと思い、足早に歩いていた途中で、その店の前で立ち止まった。

ガラス越しに並ぶパンや甘い菓子。けれど店内の席は空いていて、どこか時間が止まっているように見えた。

一度宿に戻ったら、もう外には出たくないと思った。

いくつかパンを選び、持ち帰りできるかと尋ねると、店主は短く頷き、静かに袋へ詰め始めた。

無駄な動きがひとつもない。

そのまま店を出て、雨の中を走って帰った。

 

翌朝も、雨はやんでいなかった。

まだ暗さの残る通りを歩いていると、一軒だけ明かりのついた場所があった。

あの店だった。

店主は前日と同じように、黙々とパンを並べている。

特別お腹が空いていたわけじゃない。ただ、あの空気の中にもう一度身を置きたいと思った。

扉を開けて席に座る。

「チャイをください」

それだけ伝える。

店内にはラジオの音が小さく流れていた。

しばらくして運ばれてきたチャイから、白い湯気が静かに立ち上る。

グラスに手を添え、その熱を確かめながら、外の雨を眺めていた。

何をするわけでもない時間だった。

ただ、そこにいるだけの時間だった。

 

それから毎朝、まだ日が昇る前にその店へ通った。

夕方にはパンを買って宿へ戻る。

それだけの繰り返しが、いつの間にか一日の輪郭になっていた。

二週間も経つ頃には、言葉を交わさなくても居心地の悪さはなかった。

ある朝、席に着くと、注文をする前にチャイが置かれた。

今日はどれにする、とパンを指差してくる。

選ぶと、食べやすい大きさに切り分けて皿に並べてくれた。

変わらず無口だったが、そういう小さな所作に、この人のやさしさが滲んでいた。

 

パンに手を伸ばしたとき、店主がチャイを持って同じテーブルに腰を下ろした。

「君はここに住んでいるのか」

「いや、観光で来ている」

「なぜそんなにトルコ語を話せるんだ」

ぽつりぽつりとした会話だった。

話すうちに、彼は少しだけ笑うようになった。

最初に感じた距離は、気づかないうちにほどけていた。

 

「こんな小さな町で、何をしているんだ」

そう聞かれたとき、答えに少し迷った。

特に理由はなかった。

来る前に予約していた宿の期間が残っていただけで、何かを見に来たわけでもなかった。

ただ、雨の中で時間を過ごしていただけだった。

「観光だよ」

結局、そう答えた。

 

それからは、顔を合わせるたびに短い会話を交わすようになった。

どこへ行ったのか、明日はどこへ行くのか。

そのたびに彼は、チャイを飲んでいけと席に座らせた。

会計をするときには、いつもチャイの分だけが抜かれていた。

何も言わずに。

 

リゼを発つ日も、雨は降っていた。

いつものように店へ行くと、彼は次にどこへ行くのか、どうやって行くのかを何度も確かめてきた。

「大丈夫、ちゃんと行けるから」

そう言うと、彼は少しだけ笑って、チャイのおかわりを勧めてきた。

 

外は相変わらず冷たい雨だった。

けれど、その日最後に飲んだチャイは、不思議なくらいあたたかかった。

 

またここに来る理由が、ひとつできた気がした。