【デリー退屈日記】ゴミの山とそれをかたずける二人

僕の滞在している地域はデリーでもあまり裕福ではない人たちが住んでいる場所らしい。

駅の近くなので僕の住んでいる周辺はあまりそのような感じはしないのだが、少し離れるともしかしたらそうなのかもしれない。

宿から駅までの道でいつも僕が見かける光景がある。

電柱の隣に大きな木が立っていてその下に小さな子供が丸々埋まってしまうのではないかと思うくらいに家庭から出たゴミが積み上がっている。

分別の概念はないようで生ゴミもプラスチックも燃えないものも粗大ゴミも全てが入り交ぜられている。

でも、不思議なことに隣を通ってもあまり刺激のある匂いは感じない。

それでも1メートルくらいは離れたいと思うほどに見た目はグロテスクなものになっている。

その中には野良犬が何かわからないものを食していたり、虫が飛んでいたりしている。

その中で僕が毎日見かける夫婦のように見える男女がいる。

彼らは毎日のように手押し車の中にリサイクルできそうなものを探しては1日かけてそれらを回収していた。

夕方僕が宿に帰ってくる頃にはゴミがほとんどなくなっているのだが、時々彼らがその近くで休憩している光景を見かける。

僕が部屋のゴミをどこに捨てれば良いのかと宿の主人に聞くとその夫婦が毎日いる場所に放っておけば良いという。

ある程度裕福な人々は彼らのことをどう思っているのだろう。

そして、数ヶ月インドで生活していると自分自身彼らに来た時ほどの感情を抱かなくなっていることに気がつく。

貧困が当たり前のようになっていてそれを見ても無感情か、または迫ってきて物乞いしてくる人たちには鬱陶しいとさえ感じることもある。

日本にいると貧困は前には見えない。

だから、インドのような貧困がそこらじゅうに溢れているような場所に来ると僕たちは衝撃を受けてしまう。

そのたびになぜ貧困に喘ぐ彼らは自分でどうにか這いあがろうとしないのだろうと考えてしまうが、実際はそれができないわけがあるのだと思う。

それは僕にはわからない。

そして、この問題はどれだけ外国人が訴えたところでこの国の人々が彼らをみる目を改めない限り無理なことだと思う。

インド人はある程度の豊かさを持つと僕らよりも貧しい人たちでもメイドと呼ばれる人々を雇っている。

彼らメイドはどこの家を見ても色黒であのゴミを回収していた人々と同じ人種の人々である。

この国ではやっぱりまだ人種による差別が多いことの表れであると思う。

僕の宿の前には女性の人権に対する抗議の横断幕が張られているが、その向かいのこの宿でももしかしたら何らかの差別があるのかもしれない。

僕は窓からその横断幕を見るたびにそんなことを考えてしまう。

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