不便が人のつながりを作る

今日、借りている部屋の中で僕はYouTubeを見て1日を過ごしていた。お金もあまりないので外に出ずに節約するためだ。

そんなときYouTubeである人が言った一言が気にかかり今日1日ずっと考えていた。

「人とのつながりというのは不便なところにできる」

僕はその言葉を聞いた時、いったいどういうことなんだ?

と思ったが説明を聞いているとなぜかすごく納得してしまったのだ。

人はどんどん便利なようにと社会を変えていくけど便利さを求めた先には人との繋がりの薄い社会ができてしまうのだという。

僕もそれには納得した。

イスタンブルにいた時、前の会社の友人と旅について話していた。

その人は僕よりもひと回りくらい年齢が上である。

僕と同じくらいの時にいろんな国を旅していたのだという。

その人は旅に出ると道を聞くことひとつとっても現地の人が適当に答えたりするからなかなか目的地に着けなくて大変でしょ?と僕によく質問してくる人で、その話を聞いていて僕はよく頭の上に?を浮かべていた。

なぜなら、僕にとって道を聞くことは現地ではしないことだったのでその感覚がわからなかったのだ。

彼女はその答えを聞いて逆に驚いていたが、僕にはかなり普通のことなので二人ともギャップをかんじていたのだとおもう。

そう、僕は旅をしていてあまり人と関わらなくても今簡単にいろんなことができてしまうのだ。

考えるとこれはかなり便利なことで、宿を取るのも道案内も美味しいレストランもなんでもスマホ一つあれば一言も話さずに完結してしまう。

そんな環境に生きている人にはコミュニティーも人付き合いも必ずしも必要なものではなくなってしまったのだと思う。

僕たちの生活環境はかなり便利なものになってしまったから。

でも、僕が旅した貧しい環境で生きている人たちほど近所のつながりを大切にしていたし、インドでもよく大勢で集まって公園で楽しそうに会話をする姿も見た。

そこにはシートを敷いてヨガをしている姿があったり、サリーをきたおばさんたちが日が暮れる時間帯にリラックスしている姿を見たり。

不便が多い地域では特に多くの人と人のつながりをみたように思う。

特にインドではこのような光景は多いと僕は思う。

逆に日本ではそれらは生活の大きな部分を占めているようには見えない。地域の陰で年配の方々がひっそりと行っているイメージだ。

僕の住んでいたところは田舎の島だったのでよくおばあちゃんが町内会に参加していたのを覚えている。そこには若者はほとんど参加しておらず、昔からの友人同士でコミュニケーションを取るためのおばあちゃん達のコミュニティというような感じが僕にはあった。

昔はこのコミュニティが必要だったのだろうが、今の若者が一切参加してないということはコミュニティーは必要のないものになったということなのだと思う。

僕はその動画を見た後に宿の近くを散歩してみた。

夕暮れ時ということもあり、近くでは玄関先で楽しそうに話すおばさん達や店先で会話する地元の人たち、家と家の薄暗い隙間で子供達を遊ばせるお母さん達。

インドの下町では至る所でこのような光景が見られる。

不便だからこれがまだあるのだろうか、これから発展してこのような姿もなくなっていくのだろうか。

そんなことを考えながら僕はこの日散歩をしていた。

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