【函館編】旅のあれこれ

函館旅行最終日、バスの時間を待つ暇を潰そうと小さな町の中を歩いていた。

正直3日もあればこの町の主要観光地は十分周れてしまう。

最終日特にいきたい場所もなくただただ時間が過ぎるのを待っていたのだ。

函館朝市近辺を歩きながら時折トタンと薄い木材で建てられた今にも崩れてしまいそうな住居に目が入ってしまう。

綺麗だとかこんな場所に住みたいだとかと思うわけではない。

ただ雪に覆われた時代に取り残された家々を見ながら目的もなく歩いていた。

住宅地を抜け特に目の引くものもないような現代的な作りのビルを見かけるたびにさっき見かけた古い住宅のことを思い出す。

自分でもなぜ心が惹かれているのかわからなかった。

暇だから考えてみた。

考えてみたわけではないかもしれない。

ただ頭の中の血管を血が巡るように高速処理されて何かが整理されていく。

なぜ僕は旅をしているのだろう。

どこに行っても今のように退屈だ、なんでここにいるのだろうと感じることは多いのに気がつくと僕は旅の計画を考えている。

ぼーっとしながら歩く、周りの人々がフレッシュな雰囲気で僕のもう見終わった観光名所へと向かい歩いていく。

初めていく場所は想像が膨らみ過ぎて楽しみで仕方なくなる。

でも、数が増えれば増えるほどどこに行っても似ていると感じる事が多くなる。

函館の赤れんがは横浜にもある。

魚市場は日本各地に同じようなものがある。

函館市内を走るトラムの光景は長崎や外国にもある光景だ。

僕は同じものばかりでダメだと言いたいわけではなく、人の生活は世界中どこにいてもやっぱり大きな違いがないのだと思う。

昔はそれぞれの国の特徴があったのかもしれない。

でも、ある程度多くの国が発展して生活レベルが上がると多くの国は便利さを求めて同じものに収斂されていくのだと思う。

そこで今まで持っていた文化や個性はどんどん廃れていく。

僕はトタンでできた古い家々をみた時にその光景に惹かれた。

決してそこに自分が住みたいわけでも憧れたわけでもない。

でも、そこには物珍しさがあって、もう誰もが好んで選ばないものがあった。

それはノスタルジーというものであって廃れていった過去の遺物だ。

観光名所の多くは過去の遺物なのだとこの時僕は本気で理解したのだと思う。

分かってはいたけど、理解はしていなかった。

僕は旅に時代に残された過去の景色を求めていた。

もう現実にはないものなのだけど、旅でそういう場所に行くことで少しでも感じたいと思っているのだと思う。

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