イスタンブール。

日本からはどこか遠い場所。

日本人からは理解もできないような人々が住む国がある。

人間は表面的にはみんな同じことを理解できると思っているけど、実際はそうではない。

同じ人間でも古くから受け継がれてきた考えというものは理解できるものも理解できないものに変えてしまう。

僕ら多神教が一神教のことを完璧に理解するのは無理だろうし、一神教が僕らを理解するのは無理だろう。

僕はみんなが同じように平和を願っていると考えていたし、それぞれが自由にやれば良いとも思っていた。

でも、世界には同じように平和を思っている人だけではないし、自分と同じ考えしか認めない人もいる。

それはその人がどんなことを信じているかということであって、人はみんな何を信じているかでほとんどのことが決まると思っている。

だから、正解まで不正解もないのだと思う。

自分の信じたものが正しいと考える人が多いし、人はそれしか正しいと思えない。

僕はイスタンブールでそれをよく実感した。

先に言っておくと僕はイスタンブールが悪いと言いたいわけではない。イスタンブールに魅了されて、そこに住む人たちのことも僕は好きだ。

だから、僕はイスタンブールのことについて良くも悪くも書くということ。

良いことだけを並べ立てる人がそれを愛しているとは限らない。

いろんな考えがある。

僕はイスタンブールを観光していた時、あるモスクを訪れた。

自分の宗教観についてあまり考えたことはなかったけど、トルコに長くいると嫌でも考えなくてはならなくなる。

例えば、イスラム教徒はよくイスラム教についてはどう思うかとか君は何を信じているのか?と質問してくる。

最初の頃はよくわからない。

いろんなものだと濁して話していたのだけど、トルコを旅している最中に暇ができるとそれについて考えることが多くなっていた。

僕は日本人で沖縄人だ。日本と沖縄には宗教的に違っていることも多い。

とは言っても日本の宗教は全てが神話のように嘘っぽいことも多い。

それを信じろと言われても100%信じることはできない。

沖縄ではよく意味もなく宗教行事をさせられた。

長男がこれをやらなくてはならないと父と共によくさせられたことを思い出す。

なんの意味があったのかいまだにわからない。

日本人は死んだら灰になる。なのに、イスラム教徒は灰になることを嫌う。

別にどちらでも良いじゃないかと僕は思うのだけど、そうでない人たちがいる。

モスクでイスラム教に改修を迫られた。

僕が何度も自分には自分の国の文化や宗教感があると断っても食い下がることなく何度も迫ってくる人だった。

笑顔の裏にはなぜ私たちの宗教が理解できないのか?こんなに良い宗教は他にないのだよという思いが見え隠れする。

僕はそれをみてきっと僕らは完全には理解し合えないのだろうなと感じた。

物質としては同じなのに、中身が全く違う。

そう感じてならなかった。

イスタンブールではそれでもイスラム教社会としてはとても異質な街だ。

イスラム教はオカマを認めない。なのに、イスタンブールにはオカマの風俗嬢が路上で営業をかけている。

多神教は認めないのに日本人を好きだという人が多くいる。

イスラム教ではお酒を禁じているはずなのにみんな普通にお酒を飲む。

恋愛も立ち振る舞いも表面的な思想も思考もほとんどグローバルスタンダードなのに、深く付き合おうとして一歩踏み込むと異文化人は混沌の中に迷い込んでしまう。

結局、核となる部分が全く違うと感じてしまうのだ。

僕はそういう意味で人は完璧に理解し合うことができないと言っている。

でも、僕はそれで良いと思う。理解できないものや受け入れられないものを無理に受け入れることはないし、理解することはない。

そういう人もいるよねと受け流せば良い。

イスタンブールは歩いているだけで国家も民族も宗教さえ全く違う人々が混じり合っている。

そして、それらが何とかうまくやっているように見える。

それも僕がイスタンブールを好きな理由の一つなんだと思う。

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