人の幸せについて異国の地で考える

なんか、大きなことを考えてるなと思うのだけど、時間がありすぎていつも退屈しているとやっぱりいろんなことを考えてしまう。

その中でも僕が毎日ふとした時に考えているのがこのことだった。

僕は当然幸せになりたいと願っているし、それを追い求めているのだけど、実際幸せがなんなのか今でもはっきりした答えは持っていない。

でも、薄々気がついていることはいくつかある。

僕は世界一周旅行に出る前は毎日毎日働いたり勉強に充てる時間を分刻みで管理しようとしてはすごくストレスを感じていた。

あの時は幸せというものからはかなりとうかったと思う。

毎日が苦しくて忙しいはずなのに退屈だと思っていた。だけど、今の退屈とは真逆のところにあると思う。それもよくわからないと思いますが。

僕はリゼの町に来てから何もしない時間を多く過ごしている。日付を見ることが多かった僕はいつの間にか3月になっていることさえも忘れていた。

その中で僕は部屋の天井を見ながらここに住んでいる友達と会える日を待ち望んでいることに気がついた。

友達は学生のなのでもちろん会えない方が多い。

でも、僕たちは定期的にあって同じ時間を過ごす。

僕は今その瞬間を一番楽しみに生きているのだと思う。

そこで僕は思った。

僕が今幸せかどうかはよくわからないのだけど、東京にいた時よりは幸せだと思う。

僕は幸せを何かと比較して感じようとしていること。そんな幸せの感じ方もあるのだということ。

それが過去の自分だったり、他人だったり。他人と比較する代表的なものがSNSなのかも知れない。

僕は過去と比較して幸せを感じているということは、友人と会っているあの瞬間は僕はとても幸せなんだと思う。

でも、一緒にいる間に僕はそのことについて全く考えない。

もしかしたら、言葉に縛られているのかも知れない。

僕たちはこの世のものや現象、全く僕らが感じることのできない想像上のことにさえ名前をつけてしまう。

幸せもその一つなのかもしれない。

幸せというものは本当は存在しないもので、僕たちは名前がついているからそれが存在してると思っているのかもしれない。

僕たちが幸せと言うとき、実際は楽しいとか、嬉しいとかそんな感情の中にいるときだ。幸せは何かと言われると皆がわからないと一瞬感じると思う。

だから、僕は思うのだけど、幸せは考えても僕には答えが出せない。存在するのかどうかもわからない。

でも、僕が人と話して楽しいとか好きな人と手を繋いで嬉しいとかそんな感情は実際に感じることができる。僕たちはそんな瞬間に幸せと名づけているのかもしれないけど、僕たちはただそんな瞬間を求めて生きれば良いのではないか?と思う。

それが結果的に僕にとっては幸せという状態なのかもしれないと僕の中でもなかなか混乱していることをブログに書きました。

実際、周りを見ると僕たちは笑っている人を見て幸せそうだと感じたり、仲良しそうなカップルや夫婦を見て幸せだろうなと感じる。

自分のことは感じにくいけど、人のことならこんなにも感じることができる。

だから僕は実際にはみんな幸せの状態にあるけどそれを感じられていないのだと思う。

僕はトルコの子供たちや老人たち、カフェで談笑する人たちを見てそう思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です