【デリー退屈日記】毎日駐車場でとうもろこしを焼いているおばあちゃん

僕が毎日夕方に食べ物を買いに行くといつも同じ場所におばあちゃんがとうもろこしを焼いている。

車が多く駐車しているところで一人黙々と炎が燃え盛る鉄網の上でとうもろこしを焼いている。

その周りでは屋台で食事するビジネスマンやスポーツジムに向かう男女、スイーツを買いにくる女性たちが行き交っている。

そんな中、そのおばあちゃんだけが場違いと思うようなことをしているのだ。

僕は毎日その人を眺めているのだけど、僕がみている限りでは一度も誰かがそのとうもろこしを買っているのはみたことがない。

おばあちゃんが食べているのもみたことがない。

何のためにそうしているのかはわからないのだが、いつもその人だけが場違いに見える。

インドにはこのような格差があるのはわかっているのだが、インドの貧困の人々は積極的に人がいるところに集まってどうにか施しを受けようとするのが普通なのだと感じているので、そうなのかなと感じている。

でも、インドの人々はそれをみてどう思っているのだろうか、彼女のことを見下して地位の低い人だと思っているのだろうか。

僕にはさっぱりわからないが、今日彼女の座っている駐車場の横にある屋台で料理を待っている間に彼女を観察していると意外とそうでもないのかもしれないと感じた。

なぜなら、彼女は自分から立ち上がってバイクの上で休憩している男たちの中に入って世間話のようなことをしていたからだ。

男たちも彼女を煙たがることもなく、普通に接していた。

もしかしたら、インドの人々はこのような貧困が当たり前の中に生きているので、誰もそのことを気にしていないのかもしれない。

良いも悪いも思わず、ただただそこに無関心なのかもしれない。

だから彼女のような地位の低い人々のことも煙たがることなく普通に接するのかもしれない。

もしかしたら、外国から来てそれをみて貧困だとか、可哀想だとか無意識下で勝手に感じている僕の方が彼女を見下して生活しているのかもしれない。

そう考えていると、トルコの語学学校にいたときにスイス人の女性がトルコは女性の権利が制限されているから良くないと言っていたのを思い出す。

彼女は好きでトルコに滞在していて、これからその土地で長く生活しようと考えているのに西洋の考え方を正義と考えてトルコを批判していた。

僕もそう思ってはいたが、トルコは西洋や日本ではない。

人権の扱い方もトルコの考え方がある。

その時僕は、自分たちの考えを他の国の人々にも押し付けるのは良くないと感じて自省しようと思っていたのにやっぱりインドでは無意識に自分の価値観でその国のことをみようとしていたのかもしれない。

うーん。グローバルの世界で平和を実現するには同じ価値観を持つことが重要だけど、それはかなり難しいことなんだと改めて感じた。

おやすみなさい。

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