2,インドでよく考えたこと

地元の人が多く住む僕の宿から扉を開け一歩外に出ると蒸し暑い砂混じりの空気を感じて自分がインドにいることを思い出させられる。

デリーは排気ガスや砂などの影響で常に空気がよろしくない。

そんななか、ずっと部屋にいても退屈なので今日もデリーの中心地へと足を運ぶ。

インドの旅では一人で歩いている時によく自分の世界に入り込んでいることが多い。

例えば、オールドデリーの街をゆっくり観察してムガル帝国時代の建物の装飾を見たり、イギリス統治時代に建てられたと思う西洋風の建物を観察したりするのだけど、僕の集中力を削いでくる存在がデリーにはたくさんいるため、穏やかな気持ちで美しいエキゾチックな景色に没頭することができない。

インドには歩いているだけでしつこくあとをついてきてマシンガンのように勧誘してくる人々がいる。

彼らと1日に何度も遭遇すると観光どころか疲れて黙々と道を歩いていることがよくある。

実際インドは「汚い、うざい、うるさい」と言われるほどに悪い部分が強調される。

その中のうざいが彼は外国人勧誘集団の仕業なのだ。

そんな環境にいるともう周りの景色の情報は入ってこず自分の世界に入り込んでいる。

もしかしたら現実から逃れるために自分の殻にこもってしまったのかもしれない。

雑踏と砂煙の中を歩いているとインドについてよく考えていることに気がつく。

インドと日本を退避したり、インドの悪い部分、良い部分を思い返したりする。

インドの子ども達はとても明るくて外国人にも物怖じせず話しかけてくる。そして、すごくキラキラした笑顔で写真を撮ってとたくさんの友達をつれてきたりする。

それを見た僕たち日本人はインドの子供は自由でこんな開放的に生きている。貧困の中にいる子供はこんなに輝いているのに日本は先進国で裕福なのに違うとよくSNSの投稿で見かける。

僕もその子達を楽しそうだなと思う反面、子供はどこの国でもキラキラした笑顔で自由に遊んでいるのではないか。と考えてしまう。

ただ僕たちは見知らぬ人に積極的に話しかける文化を持ち合わせていない。

だから、親からその教育を受けている日本の子ども達は知らない人に無闇に駆け寄ったり笑顔を見せたりはしない。

ただそれだけの理由で子供達の純粋さも自由さも変わりがないように思う。

大人だってそうだ。

東京の電車には死んだ目をした大人が多いが、海外に出ると貧困の人たちでも生き生きとしてる。

なんてことを聞くが、実際インドのリキシャー運転手は死んだように虚な顔で日中仕事をサボっているのをよく目にする。

仕事が嫌なのか退屈なのか、それとも儲からなさに絶望してなのか真昼間からリキシャーの上で寝っ転がって、ただただほこりの舞う道路を眺めている人もいる。

どこの国に行っても満足できていない人々は死んだ目をしている。

特に、熱い国の人々で外仕事をしてる人ほど紫外線にやられたためか濁った目をしているので死んだ魚の目に見える。

だから、死んだ目をしてるというのも日本のサラリーマンだけではない。それを見る人が偏った見方をしているだけだと思う。

昼間から道路で寝て過ごす人々や仕事をサボって談笑してる人々を自由というなら、彼らのように日本でも仕事をサボって道に寝転んだり、働かずに道行く人と談笑してみたらいい。

多分それは自由よりも孤独や退屈の方が多く感じられると思う。

多分、インドでそうやってる人々も自由や幸せを感じていないと思う。

そんなことを考えながらニューデリー駅の方まで歩いているとターバンを巻いたおじいさんが日本語で耳かき、耳かきとセールスをしてくる。

こんなところで耳かきを買う人がいるのかな?と思いつつ。日本語で「耳かきいらない」と外国人のようなカタコトの日本語で断る。

僕もどんどん彼らの勧誘に影響されてカタコトの日本語を習得しつつあるのかもしれない。

僕が思うにインドで英語を話す人たちの発音よりも日本語で話す人の発音はかなり綺麗だと思う。

インド人の英語は人によってはwhat’s your name

すら聞き取れないのだが、日本語を流暢に話す人たちの日本語はかなりうまい。

僕の出会った人たちの日本語は文法はおかしくても単語の発音は意味のわかるくらいに綺麗な発音をするのだ。

人も車も道路も動物も宗教でさえもここではいろんなものが混ざり合い時にそれらが衝突したりしながらカオスな光景を作り出す。

世界最大の民主主義と言われるここの国は僕にもいろんな角度から影響を与えてくれるらしい。

嫌だと思ってることも角度を変えると好きになっていたインドでの旅はこんな心の変化を何度も経験するのかもしれない。

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