僕は何ヶ月も旅をしているが、長く旅をしていると人は旅に関してもその国の文化遺産に触れることも退屈になってくる。
僕もトルコにいた時にそう感じた。
そうなってしまうと旅という非日常にいるのに気がつくと安宿のベッドの上で1日を過ごしているということになる。
これは昔からバックパッカーたちが沈没という言葉を使って表現してきたことだが、現代においてはこれは昔よりも深刻になると僕は思う。
なぜなら、今はスマホでネットフリックスを見たりYoutubeを見たりインスタグラムなどのSNSを使えば簡単に1日が過ごせてしまうからだ。
だから、僕たちはなぜ旅に出たいと思ったか再確認する必要があるし、それがもし他国の文化に興味を持ってのことなら尚更外の世界と向き合わなければならない。
だから、僕はインドでそうなりかけた時に観光地へ行ってみることにした。
インドの観光地は入場料の他になぜかカメラ持ち込み料という訳の分からないものがある。それは今度何処かで話すとして、今日はどのように観光地を楽しむか?というテーマを書こう。
とは言ったものの、僕も完全にこれというものがあるわけではない。
僕の場合、カメラで写真を撮ることが好きなこともあり、まずはいろんな文化遺産を見ながら写真を撮る。その後に誰かの書いた記事でその観光地のことを知ることにしている。
その後、家に帰ってからはインスタグラムに写真と共に観光地のことを記録するようにしている。
観光地にいる間は僕の場合、その観光地に酔いしれるということもある。
例えば、僕は最近インドのニューデリーにあるフマユーン廟というムガル帝国時代の王様の墓に行ってきた。名前だけ聞くとただの墓なので、正直僕は興味が湧かない。でもこの墓は昔の王様の墓ということもありかなり大きく豪華に作られている。正直僕にはこれが昔の城だと言われても納得いく。
だが、墓なのだ。
実際僕はその建築物を見るためにそこに訪れた。
敷地内には現地人のインド人でいっぱいだった。
中心には城のような大きな建物があり、その周りを緑に囲まれている。噴水があったり、芝生の中に数本のヤシの木があったり。暖かい地域特有の植物に囲まれている。
王の棺は建物の高いところにあり、その場所に行くにはかなり急な階段を上がらなくては行けない。
この作りを見ても僕はこれは城の建築ではないのか?と疑問を持った。
敵がすぐに城に侵入できないように日本の城の階段は現代とは違う階段の幅で作っていたりするからだ。
墓をそのようないとで守る必要が昔はあったのかもしれない。
廟に上がる廟を囲む庭園を見渡すことができる。
そこからよく眺めるとかなりの人がいて、芝生に寝そべっている人がいたり、ピクニックをしている人がいたり写真を撮る人、ベンチで話している人などいろんな光景が見渡せる。
僕から見るとここに昔マーケットがあって今と同じように多くの人で昼夜問わず賑わっていたのではないかと思うほどに活気があった。
こんなふうに実際とは違う見方をして昔を想像するという楽しみ方もあるのではないか?
結局、過去のことは誰もわからないのだから。今言われていることも事実なのかさえわからない。
もし観光地の歴史を読んでもワクワクしなくて興味が湧かないのなら自分勝手に想像して楽しむやり方もあると僕は思う。
それでも、旅は長くしているとかなり退屈を感じることもある。
人にはやっぱり意味が必要で、目的がなくては行けないのかもしれない。