ファームの仕事終わりに息抜きに町へ出た。
大きな町ではなくて田舎の小さな町だけど、そこへいくとどこにこんなに人がいるのと思うほどに人が集まっている。
今日買い物を済ませてバスの時間までショッピングモールのソファーで座っていると僕の後ろに聞き覚えのある懐かしい言語が聞こえてきた。
後ろには杖をついたお爺さんと老夫婦が3人で話していた。
トルコ語だ。
とても懐かしい訛りと響きにすぐに反応してしまった。
話しかけたい、でも、急に話しかけると変かなと思っているうちについに話しかけることはできなかった。
その間、お手前の人見知りを発揮して3人の話しに耳を傾ける。
これの方が変だとは思ったけど、それだけでもなんだか幸せな気分になった。
トルコ語を長く学んでいたおかげである程度は聞き取れるし、純粋に僕はトルコ語が好きだ。
その思いが抑えきれなくて誰かにこの出来事を知って欲しくてインスタグラムのストーリーにそのことをアップした。
すると、トルコでよく遊んだ友人からメッセージが送られてきた。
彼女は僕が好きだった人で、今ではあまり連絡を取っていなかったのだけど、久しぶりに話をした。
トルコ語上手になったね。
彼女からトルコ語上手になったねとメッセージが届いた。
それにうん、そうだねと彼女との思い出を思い返しながら少し幸せな気分になっていた。
僕はトルコ語が何の役に立つのかわからないと思っていて、でも、それが好きだからという思いだけで学んでいた。
でも、この時にわかった気がする。
僕はずっと利益を考えて何かをやるべきと考えていたけど、好きという気持ちだけで何かを熱心にやるというのはお金や、仕事につながるという利益よりもずっと幸せを感じられるんじゃないか。
この小さな出来事だけで今日I日が楽しいものだったように思う。
結局、ショッピングモールで会ったトルコ人には勇気がなくて話しかけられなかったのだけど。
僕はみんなに覚えていて欲しい。
帰り道、バスに乗りながら僕は考えにふけっていた。
最近あったことやこれまでのこと。
最近、友人にインスタグラムのアカウントを教えた時に自分の自撮りを見られるのが少し恥ずかしいと感じた。
でも、それなら何で僕は自撮りを乗せているのだろうと疑問に思った。
少し考えてみたけど、はっきりとしたことはわからなかった。
なんとなく思うのは僕は誰かに自分を覚えていて欲しいのだと思う。
僕の友人はほとんどが外国人だ。気軽に会えない人たちでよく話す人でも下手すると数年会えないこともあると思う。
だから、僕は相手が忘れないように、自分を覚えててもらえるように必死に自分をアピールしているのかもしれない。
家族が家に先祖の写真を飾るのと同じことだと思う。
小さな自己表現。小さな見栄。誰かによく思われたいって思うのは悪いことではないと思う。
自分らしくなんてわからない。
けど、自分なりに生きていれば誰かが覚えててくれるかもしれない。
バスを降りて帰路をのんびりと歩いていた。
すると、ブルブル、スマホが急になった。
同じ家に住んでいる人が僕がいないことを心配して電話をかけてきた。
きっと僕らは誰かの中に少しは存在しているのだと思う。