先日、新宿の武蔵野館でトルコの映画が公開されているということでトルコ好きの僕は早速見に行くことにした。
あまり映画に行くことはないし、映画ならスマホでサブスクリプションで見れるし、2,000円も払ってみるのはもったいないと思っていたんだ。
でも、その考えが180度変わった出来事があったからそのことも含めてそれは写真にも関係してるよねってことをここに書いていきたいと思った。
トルコの東の小さな村を舞台にくり広げられる人間の嫌な部分が見える作品。
この作品は僕の価値観を変えてくれた。
でも、なぜ僕はこの作品を嫌な作品だと感じるのか。
始まりからこの映画はずっと薄暗い印象を感じた。
雪が多くのシーンに現れるから冬の寒さが人の心も冷たくしてしまうような印象を与えられる。
主人公は最初はとても良い人のように見えたけど物語が進むにつれてどんどん彼の内面がわかってくる。
お気に入りの少女には手厚くサポートをするのにそのほかの生徒には大人気なくブチギレたりする。
友達が気に食わなくなるとそれに嫌がらせをする。
それでも、主人公自身に多くの悩みや葛藤がある。
現実社会でよく感じるような人に関する印象も多くこの映画からは感じられる。
まるで現実社会にいるようでどこかほかの映画のこれは映画の世界だという感覚が薄くなり、現実と映画の少し離れた感覚が一つにつながって行くように感じたことも多かった。
例えば主人公たち3人が問題について議論し合うという会話劇は冬の寒い夜に暖色の灯りが灯るリビングで行われていた。
3人が余裕を持って映る画角でトルコ人らしい荒々しい口調で男たち3人が口論するという場面。
僕はこの大声で喧嘩してるようなトルコ人男性の話し方を嫌だと感じたし、それは映画の中の話というより、少し離れたところからその光景を実際に見ているように感じた。
映画の世界というより現実に起きていることを見ているような感覚にもなる。
だから、映画の大半は退屈にも感じる。
よく映画に含まれている誇張された表現はあまりなく、現実によくある人間の嫌な部分が細部まで表現されていた。
果たして、僕はこれを家でサブスクリプションを利用して見ていたら3時間20分も見られただろうか。
きっと30分も見られないだろう。
それくらい全体的には退屈な映画だ。
これを見た人が途中寝てしまったと言ってもそれは仕方ないと感じるほどに。
でも、僕はこの映画を見たほうがいいとオススメする。
特に、映画館で見ることを強くオススメする。
お金を払ってみることでなんとしてでも最後まで見ようと感じるし、退屈だから悪い映画というわけではない。
退屈なシーンには時に大切なことを引き立てる意味があったりする。
この映画はそういう映画だった。
この映画の内容以外にも映画を映画館で見るということの価値も話したい。
映画という作品を多くの人がサブスクリプションで消費するため、時間を潰すために見ている。
また後に特に感想も出ないくらい集中も没頭もしていないのではないか。
実際僕はアニメをサブスクで見ているが、ほとんど感想のわかないものや思い出せない作品も多い。
それは無料で没頭することもなく意味を見出そうと思って見ているわけではないからそうなるのだと思う。
本当に時間を潰しているだけなんだ。
でも、映画館というお金を払う、映画を見る以外何もできないという縛られた環境で見ることになったら嫌でも意味を見出そうとする。
確かにつまらない作品もあるだろうけど、それでもそんな環境で見ればなんでつまらなかったのか考えるのではないか。
これは写真にも繋がると僕は思った。
写真もインスタグラムやXで見ると約数秒で消費される。
でも、写真展があると聞いて写真展まで足を運ぶと何かそこに価値を見出そうと考えるはずだ。
僕は最近ソールライターの写真展に足を運んだ。
見たことのあるようなソールライターの写真がいくつも展示されていた。
作品を鑑賞する前にあるフレーズを見つけた。
「何も起こっていないようでよく見れば何かが起きている。僕はそういうのを撮ることが好きだ。」
正確ではないが、そんなことがソールライターの言葉として書かれていた。
僕はその言葉を見た後に彼の作品を眺めたが、その言葉通りの光景が写真には収められていた。
僕は写真展で自分の作品に活かせることはないかと彼の作品をよく見てなぜこんな写真が撮れるのかと考えた。
写真展を去った後でさえそれを考えている。
多分僕が彼の写真をインスタグラムで見つけてもきっとすぐにスクロールしてしまっていたと思う。
だから、作品を見る時は制限された空間や没頭できる環境で行うことが大切だと思う。
話はかなりズレたが、今回武蔵野館で2つの季節しかない村を見て退屈なシーンが多いことが悪い作品であるわけではないということや、映画や写真を見ることを意味あることにする手段を再認識することができた。
きっと僕はまた映画館に映画を見に行くだろうし、写真展にわざわざ足を運ぶだろう。
それには意味があると感じたから。